資本主義的欲望は正しいのか?

「私の資本主義論」という本を読んでみると、佐伯啓思さんの論文が目についた。

この論文集はけっこう面白い。Amazonで二束三文で売られているので、興味のある人はぜひ。
 

 執筆者はその他にも、青木昌彦中谷巌浜田宏一岩井克人佐々木毅、間宮陽介、榊原英資、などと現代でも勢力を持っている論客が、ソヴィエト崩壊後一年という展開期の中で、資本主義を語っている。(分量も一人当たり2、3ページなので読みやすい)

 まだ半分しか読んでいませんが、資本主義に関してのあまりの多様さに驚きます。

 「資本主義は恐慌などがあり、安定したシステムではない」
 「資本主義は社会主義から取り込んだ部分はあるから、資本主義も危ない」
 「日本こそが成功した社会主義である」
 「資本主義は民主政治の必要十分条件だ」
 「中国を見れば社会主義が終わった訳ではない」
 「日本の資本主義は純粋すぎるので、もっと不純な資本主義にしよう」
 「資本主義という言い方は古いのではないか」
  
  こういう言葉が羅列してある。現代では失われつつある見方だろう。

 佐伯さんは欲望と資本主義の関係に着目しており、面白かった。
 
 佐伯さんによると、資本主義は欲望と離すことができないものであり、欲望のフロンティア(前線)が資本主義を成長させてきたのだと言う。それは大航海時代のような地図上の空白を埋めるのにも役に立ったと指摘している。(注・本文より引用→生産活動とは、絶えず欲望のフロンティアに挑戦し、欲望にモノの形を与えていくことなのである」)しかし20世紀に入ると、欲望のフロンティアがなくなり、社会の内部へと資本主義的な欲望は浸透することになる。しかしそれも日本では1980年代で飽和してしまい、個人以上の欲望の宛先をマーケッターは見つけられなくなってしまう。つまりは社会の最も最小単位である個人への欲望の植え付けをすでに終えてしまったということだ。もはや資本主義には欲望のフロンティアがないのだ。

 これは恐るべき指摘だと思う。果たして資本主義はどうなってしまうのか。

 佐伯さんはさらに続けて、この状況を打開するには、「われわれのリアリティーを根本から変えていくものでなければならない」と指摘している。またこれも恐るべき指摘だ。資本主義が生き残るためには、「これまでの生活や文化」を変更し続けるものでなくてはならないからだ。

 つまりもはや資本主義の信奉こそ革新と言わなくてはならない。

 僕たちはこの状況に対して、どのように振る舞えばいいのだろうか。

 もちろん、それは新自由主義への適応をすぐには意味しているのではなく、遠回りに言えば新資本主義への適応である。

 僕自身は、欲望を抑える努力をすることも大事だと思う。絶え間なく刺激される自分の欲望に対して、本当にそれは正当な欲望なのか、常に問い続けることは必要だろう。それは変化を押しとどめはせずに、緩和させることができるかもしれない。そしてその間に自分に適した欲望を見つけていくことができるかもしれない。だから僕はとりあえずは社民主義者でいいと思っている。
 
 ただもちろん、その流れに乗って新しいものを創造する動きがすでにあると思う。その流れもどうなっていくのか、見てみたいなあ、とも思いますけど。