原発と天皇

原発天皇の問題を自分なりに考えると、似ているなあというのが、僕の直感である。

例えば、天皇機関説美濃部達吉などは「学匪」扱いされたそうだが、こうした受難した学者の存在がまず挙げられるだろう。そうした人としては、原発問題では、原子力情報資料室や京都大学で啓蒙や研究をしていた人たちがいる。彼らの良心が捻じ曲げられてしまった構図そのものが実は、天皇機関説事件とよく似てはいないだろうか。

どうして彼らは非科学的にも、抑圧され、非難されてきたのだろうか。

僕はこの問いに迫れるだけの情報に乏しいが、それでもやはり、この構図の相似を考えないわけにはいかない。

そもそも日本人は非科学的かというともちろんそうではなく、過去、たくさんの科学者を輩出してきたことは事実である。どうして原発問題に限って、科学者の良心は働かなかったのだろう。「想定外」という言い訳と共に有名になった標語として「安全神話」という言葉がある。ここに2つ目の原発天皇との相似がある。

それは第二次世界大戦でも、言われてきたような、「不敗神話」と似ているということである。なぜか、当時の日本人が危なくなったら神風が吹く、とか日本軍は負けないというような妄想が流行していた。これはよく似ていると思う。

最近、90年代の憲法改正論を見ていた中に、社会学者の橋爪大三郎が現在の日本国憲法と、過去の大日本帝国憲法との間には、天皇という連続性があるのだ、と発言したことがあった。(「僕の憲法草案」ポット出版発行 1993 )もし彼のいうことが本当ならばこれは問題ではないだろうか。戦前と戦後は切り離されているというのが一般的な認識のように思うけども、確かに憲法天皇が1番始めに出てくるという、構図そのものは変わってないのだ。

もしかして私たちは戦前と戦後が連続していると考えるべきだろうか、そうした仮定を入れてみると、なるほどこの問題は解決するのである。そもそも原発政策を導入したのは右派の中曽根康弘である。原発天皇はひょっとして似ているのではないか。

つまりはこういうことだ。強引に原発政策を導入したい右派は、天皇的な要素で共通する、現在の憲法の仕組みをあえて過去の憲法として誤読させたということである。彼らにとっては現在も天皇の治世である。これは認識の歪みと言えるだろうが、それを一般化する事によって、原発政策を推進できた。いわば、天皇の裁可を受けたかのように振る舞う事によって、反対する側を「非国民」と同じく、非科学者というレッテルを貼る事ができたのではないだろうか。

その代償として、科学者にもたらしたのは、莫大な研究費と科学者という自己の良心の喪失だったが、彼らはまさしく、中国大陸で人体実験を行った科学者と同じ構図であり、実は科学界からパージするのが正しいのではないだろうか。もちろん、現在はGHQはいない。いるのは良心的な市民たちである。彼らは本来だったら何百年もまえに日本人が経験すべき独立戦争を闘っているのである。間違えてはならない。反原発運動とは反天皇運動のことであり、戦争責任が追求できなかった過去との決別である。日本人は事故の責任者としての、東京電力を今度こそ裁かないといけないのである。いつまで日本政府は無謬の政府としてありたいのか。国民は騙せないのに。