めんまは何で人気があるのか?


あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」という長いタイトルのアニメがある。略して「あの花」だ。物語の内容としては、昔不慮の事故で亡くなった幼なじみの女の子、本間芽衣子(あだ名はめんま)が主人公である宿海仁太(じんたん)のところに幽霊として出てくる、という話だ。何でも、じんたんにめんまはお願いがあるらしい。そういう具合に物語は進む。地方都市を舞台にしており、どことなく懐かしい印象だ。

そのめんまが人気なのだ。Twitterをやっていると、次々に「メンマかわいい」とか、「めんま最高」といったつぶやきが乱舞する。少なくともそれなりにファンはいるように見える。めんまの人気は何故高いのかを考えてみたい。

僕の見るところ、めんま人気を支えているベクトルが2つあると思う。1つはめんまが人生のごく若いときに事故で死んでしまった、という不幸のせいである。古くは判官びいきという言葉もあるように、死という不幸な要素が支持され、消費される傾向はあるだろう。それはアダルトゲームでありながら、傷つく少女たちをモチーフにしたKey作品にも明らかである。身体の障害を抱えている不幸な女の子たちに、これまでもおたくは萌えて来ていたのではないか。

もう1つの要素は、めんまが幽霊というところから来ていると思われる。めんまはじんたんにしか見えないが、じんたんと物には触ることができる。これは少しおかしなことだ。特定の人にしか見えない幽霊についての話はあまり聞かない。幽霊を見るのにも能力が必要だ、ということなら理解はできるが、本作で語られているエピソードはそうではない。例えば、めんまを巡って同じ幼なじみの松雪集(ゆきあつ)とじんたんは対立してしまうが、ゆきあつはめんまがじんたんにしか見えない、ということに非常な焦りを感じてしまう。そうあたかも、めんまが自分の意志でじんたんの前に現れているように、彼は感じているし、他のキャラクターもそういう趣旨の発言をしている。つまり、じんたんにしかめんまは見えないが、それはめんまの意志であるという風にこの世界では理解されている。

これは1つの恋愛の可能性を開いている。生前のめんまはじんたんとはちょっとお互いが気になる存在だったみたいだし、特に不思議なことではないだろう。そこまで切実なものではないが、生者と死者との間の恋愛もなかなかロマンチックではないか。しかしもっとよく考えてみると、それだけでもなさそうだ。下世話なことかもしれないが、ここでアニメを見る鑑賞者という仮定を入れておこう。

鑑賞者にとってめんまは二重に遠い存在である。普通のアニメのキャラクターはめんまほど遠くない。というのもアニメという世界に生きる住人=キャラクターは鑑賞者にとっては非実在であり幽霊的な存在だが、メンマはさらに物語の中では幽霊なので、この鑑賞者とめんまの距離は普通のアニメのキャラクターよりも遠くに感じてしまわないだろうか。もう1つの例として、「フラクタル」のネッサというキャラがいた。ネッサはドッペルという実体のない電子的な生物である。頭の中に埋め込まれた装置や、そうでなくても専用ゴーグルをかければ見ることができる。ただし触ることは基本はできない。

めんまとネッサは全く同じではないにしても、似てはいないだろうか。幽霊とドッペルという違いはあるし、何よりめんまは他のキャラクターには見えないという制約はあるものの、この2つのキャラクターは似ている。ネッサは僕の見るところ、最後には生身の人間との繋がりのために消えてしまうが、人間であるフリュネの中に残っていることが暗示されて物語は終わる。ネッサは人間でない、ということが物語の制約になっていると思うし、その事がシナリオに豊かさや影響を与えていることに注意をしないといけない。

僕は「フラクタル」におけるネッサは単におたくと呼ばれている人たちが、日頃から大切にしている二次元のキャラクターを示しているという感想を最後まで否定できなかったが、この感想はそこまで外れてはいないと思う。同じようにめんまの幽霊的ではあるが、セクシャルな動き、ネッサとは違って主人公は触れられるという、排他的な関係がそこにはある。そう、これは恋愛的な意味でも排他的な関係である。

つまりネッサのセクシャルな動きを見れるのは主人公だけだし、触るのも主人公だけの特権である。これはある意味で究極的に独占的な恋愛形態ではないか。よく現実にも思いつめたあげく、恋愛相手を不条理にも殺してしまう事件があるが、このような事件と似ているような気がする。もちろんめんまは殺されたわけではないが、化けて出た幽霊といういわば檻の中にいるような状態で、出会うのは主人公だけである。冒頭でも述べたがやはり、こういうめんまは身体に難病を抱えた女の子と同じくらい、いやそれ以上かわいそうなのであり、その状況を知るのが主人公だけというジレンマと倒錯感に身を焦がしている、鑑賞者もいるだろう。悪く言ってしまえば、めんまは「南くんの恋人」にでて来たような、手乗りの同級生と同じく、無自覚にも主人公によって捕まえられた少女なのである。少なくともその関係から、めんまは逃れることが出来ない。この支配関係があるから、多くの人のツボにはいるのかもしれない。

おたくの性のあり方は近親相姦的な要素もあるように、多かれ少なかれ倒錯的である。しかし私たちは倒錯であるというだけで、それを排除してはいけない。なぜなら性というものそれ自体は多少とも倒錯的なものであり、癖の強いものであることは指摘されている。何をもって異常とするかは、社会的な要請によるものであり、性それ自体のあずかるところではないだろう。少なくとも、この場では異常と正常の線引きは、決めることの出来ない問題だ。