柴田鉄治さんの講演を聞きに行ったよ。@自由人権協会

5月12日 於・虎ノ門 6時から。聴衆80名くらい。小さい部屋ながらも人が集まっている。自由人権協会主催。2011年5月総会。


柴田鉄治 さんの講演 (元朝論説委員)

司会・柴田さんは南極についてのエッセイも書いておられます。本当は南極のお話もして頂きたいが、メディアがなぜ、福島原発の報道が出来なかったのか。検証も始まっているが、長いレンジで報道について伺いたい。

柴田さん・大学では地震学を勉強した。だから少し地震のことも話したい。今回起きたのは最大級の地震だった。想定外ではなかったんだ。歴史的にみれば似たようなことは多い。福島原発を襲った地震は、日本にはよくあるレベルだ。津波も1000年前にきたんだ。

電源車のプラグが合わなかったとかの話もありますね。一号炉の建屋が吹っ飛んで、スリーマイル以上だとわかったはず。司令塔を決めて対応しないといけなかった。誰が事故の処理をしているのか、いまだに分からない。

東海村の事故がそれまでの日本の最大級の事故。2人が亡くなって大変な事故だった。

菅さんはもうちょっと権力集中させて、指揮をしたほうがいい。まだそんな状況だ。原子力安全委員会委員長は大分たってから、来た。「黒子に徹していた」と言ったが黒子では困る。最初の原子力事故は原子力船・陸奥だ。設計ミスだった。物質ではなく、放射線が漏れただけだから、そんな大事故ではなかったけど、港に入れず漂流した。佐世保にやっと入港したけど、大変なお金を取られた。

経済産業省保安院原子力産業を支援する組織に属している。ちょっと、おかしさがある。

過去の原子力産業は失敗だった。今回の事故で明らかである。社会のチェック機能が働いていなかった。結果はそういうことなのでは。ただそれまでの過程を見て行こう。

省庁の再編。科学技術庁なくして文部省と合併した。原子力の部分(安全委員会)を、総理府の管轄にしたが、棚上げにした感じはある。その安全委員会、100人くらいのスタッフがいるみたいだ。ダブルチェックをうたっているけど、機能してない。

1954、3月 原子力政策始まる。急遽、予算の組み替えでスタートした。総額は2億3500万円、調査費ということで予算に入れた。中曽根さんが改進党の時、やるべきだということで決めた。アイゼンハワー原子力の平和利用を!呼びかけた時と重なる。政治家が学者のほほを札束でひっぱたいた、と言った人もいる。ほとんど日本の世論では賛成。学者は軍事利用などを警戒していた。国民はメディアに主導されて、バラ色のイメージを持つ。標語募集する。原子力の標語がメディアに採用される。希望の技術である、というイメージ。原子力に対してはバラ色一色の世論だったと思う。

ご存知だろうけど、初代原子力委員長は読売の社主の正力松太郎。メディアの間でも温度差はある。原爆の落とされた広島や長崎のようにまるのはごめんだが、あのエネルギーが平和利用出来たらと思った。日本はエネルギーないのが最大の弱点。科学に関しての素朴な信仰が国民に浸透していた。科学技術立国、豊かになったのは技術のおかげだ、という認識だろうと思う。メディアは国民を煽り、その方向へひぱっていった。フロンガスもすばらしい、ということで導入されたが、オゾンホールを開けるといった弊害もあったように、技術はプラス面と同時にマイナス面も出てくる。平和利用を目的としているが、原発も同じようなもの。原爆は悪、原発は善、という認識上の罠に陥ってしまった。放射性廃棄物は減らない。いずれなんとかなるさ、と見切りスタート。子孫にまで影響が出ることは分かっていたが、もしプラスに使えたらどんなに素晴らしいだろう、ということで、突き進んだ。

あの時、新聞には科学記者がいなかった。言ってしまえば科学記者の生みの親は原子力なんだ。原子力の導入後、これではまずいということで科学の専門記者を作った。原子力基本法によって、平和利用できるからいい、というのが世論だった。57年、科学報道元年。東海村50wの原子炉の火が灯った。東海村のお土産で原子力まんじゅうも売り出された。私はこの目で見ている。

60年いっぱいまで原子力の楽観視が続いた。69年、原子力陸奥進水式シャンパンを割ったのは、皇太子妃で今の皇后陛下だ。皇室は国民の賛成していることしかしないから、どれほど人気だったか分かるだろう。大阪万博の時、会場の電気は敦賀原発から引かれていた。いかにその当時の人が原子力に期待していたかがわかるだろう。70年まで、原発は素晴らしいという、認識だった。だが70年代から公害問題でてくる。本当は水俣病は50年代だったが。政府が認めるまでに十年かかった。経済発展が重視されていた。当時の通産省は厚生省の申し出を無視して、水銀を垂れ流した。世界的に公害問題が火を吹く。科学技術はそんなにプラスではないよ、と人類は悟った。

私としては69年にアポロ月の着陸が大きかったんだと思う。世界に中継された。青く、繊細な地球の映像が環境問題に火をつけたのではないだろうか。あそこで変わったと思う。そして原子力に反対意見が出て来た。70年代に京都で反原発全国集会。しかしまだ世論は多数が原発支持だった。世論調査を長期にやって見た。78年12、55パーセント賛成、反対25パーセント。スリーマイル後は5パーセント減ったが、第二次オイルショックで、原発の支持が戻った。小事故が起こる、そして隠す、ということを電力会社は度々やった。86年チェルノブイリ事故起きて、世論は逆転する。だが反対派と推進派はそのあと拮抗する。東海村事故ではほとんど変わらなかった。今回の事故でも驚いたことに朝日が行った世論調査は変わってない。賛成の方が多くてびっくりした。質問の文章が少し違ったけど。停電は怖いからなのかな。

反省すべきはチェルノブイリで世論変わったけど、日本の原子力政策変わらなかった。変わらなかったのはフランスと日本だけ。フランスは8割依存。アメリカはスリーマイル以後、増やさなかった。オバマは福島の原発事故の前に増やそうと言ったけど。今は分からない。

70年には原発は稼働していた。福島原発の一号機は71年から。世論が原発賛成だったから、正直、安全面はぬるい。朝日を始めとするメディアは「絶対安全」を疑わなくてはいけなかった。どことは言えないが、メディアは報道によって、反対派に絶対安全を求めるのはけしからん、という空気を作って行く。そして81年の敦賀原発の事故隠しが起きた、ひどい事故隠しだった

実は54年には第五福竜丸被爆していた。原水爆禁止運動、は第五福竜丸からで広島長崎からではない、と大学生に言うとびっくりする。杉並区の主婦が署名を募り、最終的に日本で2000万人の署名が集まり、世界で6億人の署名集まった。それを思うとメディアは追求が甘かったのではないか。

朝日の批判は原子力関係者の胸には届かず、事故隠しは繰り返し繰り返し行われた。90年代も。批判が当事者の胸に響いてない。あれはメディアが悪いんです、と電力関係のOBは言う。「メディアがいちいち騒ぐからいけない」と言われた。残念なことだ。

メディアの主張は通じていなかった。大事故は小事故の研究をしないと防げない。ハインリッヒの法則といって、一つの大事故の背後には30の小事故があって、30の小事故の背後には300の事件がある。理系の人だったら、誰でも知っていることなのに。何で電力会社は対応をしなかったのか。メディアは甘かったのだ、と反省するしかない。

浜岡原発は唐突だったけど、止めること自体はおかしくないが、あの止め方はリーダーシップをただ発揮したかったのでは。専門家からはせめて相談くらいは欲しかった。私も専門家に一言欲しかったと思う。これからの政府は脱原発に進むのか、どうなるのか。

原子力は導入の時代はイエスだった。軍事利用はバットだった。本当にうまく使えたら、夢の技術だった。個々にはあったけど、原子力利用の可能性をゼロにするのはもったいないのではないか、というのが事故前の個人的な意見だった。この事故でこの先の日本の原子力政策がどうなるかは分からない。

今のところ朝日、毎日は及び腰ながら、脱原発路線。読売、産経は原発は必要だと強く言っている。これから世論はどうなるのか。世論次第だと思う。

新聞社内でも70年代は賛成反対で対立していた時代だった。これからもしかしたら、そうなるのではないか。これまでの批判が届いてなかったことは反省するとしか言えないが、若い人には頑張って欲しい。メディアは社会のチェック機能でもあった。戦争を止めるためにはジャーナリズムが必要ということで、私はジャーナリストを目指した。日本のメディアは気をつけないと雪崩現象を起こして、意見を統一してしまう。戦前だけでなく、戦後でもそういった事例はいくつかある。メディアのチェック役を皆さんにはお願いしたい。

●質疑応答

質問者A・私は銀座や高円寺でデモをしました。朝日新聞の報道ではまったくでてこなかったのなぜですか。新聞に出てこないと怖い。どういう理由だったのか。どうして報道しなかったのか。

柴田氏・知人に何度も言われました。人に言われるまで知らなかった。なんで報道しないのか、分からない。見に行った記者がいなかったのか、指導者が止めたのか。記者は何千人もいるのに。そこに現役の人がいるから答えてもらいたい。

現役の朝日新聞社員・まったくわからない。あんなにすごいデモになっているとは知らなかった。東京を取材する記者は案外少ない。被災地に派遣されていることも多い。私も話を聞いていたので、紙面に出るだろうと思って楽しみだったが、なくて残念だった。反省すべき人は反省しているのではないか。

質問者B・デモに関連して質問です。5月7日のデモのとき、渋谷署のデモの管理が異常でした。警察のせいで三時間デモの開始が遅れて、知り合いは気持ち悪くなりました。若者がTwitterとかで呼びかけていると思いますが、いまの報道体制ではうまく対応出来ないのではないですか。

質問者C・質問があります、マスコミ関係者です。最近の大きいデモは新聞に残っていないんです。デスク段階でボツ。書いても乗らなくなる。だから若い記者も書かなくなる、と聞いている。ここ5、6年では常識になったと思います。批判のメディアとしても、新聞テレビの体制が崩れつつあるのではないでしょうか。大本営発表にもうなってしまっている。これについて議論しないといけないのではないか。朝日などの大手メディアは自主規制で30キロ圏内に入れず、フリーのゲリラは取材しているけど、圧力がかかって発表することは出来なかったりする。問題だと思う。ただ民主党はフリーにも門戸を開いているのが唯一の救いだ。今の状況は海外の戦争取材と同じだ。大手メディアは撤退してもフリーの記者は取材を続けていた。

柴田氏・戦争の取材の時は悔しかった。戦争の時も今回の原発事故も組合が反対している。誰かが何か命令を下しているのかもしれない。おかしいことだ。定年近い人だったら原発の近くに行って取材できるのに。メディアの中の雰囲気が変わってしまったのではないかと感じる。イラク戦争のときもびっくりしたが。ヴェトナム戦争の時は大手も行ったのだけど、イラクではすぐ撤退してしまった。

質問者D・どうして、市民運動がなくなったのか。

なくなったとは思っていない。新聞社の社内的には70年代が一番対立していた。都内は意外と取材が薄い。東京の中では記者が歩いていない。張り付いちゃっているけど、歩いていない。反原発ではない、という大雑把な合意で今まではやって来た。

質問者E・正力松太郎が初代原子力委員長でびっくりした。メディアに対して、一言言いたい。45年生まれだが、原爆マグロとかあって怖かったことを覚えている。身近な人でも、反対していた人は多かったと思う。世論調査をしたと言ったが、世論をどう捉えるのか。この前の世論調査は適切だったか。日本の供給されている、電力は原発に三分の一依存しているが、ということをいうのは余計だったのではないか。

柴田氏・財界との関係。広告は大きな比重を占めている。広告と記事との分離はやっているはずだ。広告を出している企業を批判する時は、広告をはずしたこともあった。

質問者F・週刊朝日で、日本の全部の原発が危なくなっている、という記事が出た。もうちょっときめ細かい報道は必要のように思いますが。

柴田氏・人の層が薄い。人がいない。そういう具体的な支持、情報は政府から来ていない。誰もし切っていないのが、困る。私たちだけでは、原子炉の中までは分からない。発表を聞いていても、信頼できない。イライラさせられどうし、なのが本音。電力関係のOBもイライラしているらしい。でも誰か指揮をとれるひとがいないのか。

質問者G・いま一番信頼しているのはネットの情報だ。法律によって規制がされるが、どう思うか。

柴田氏・メディアの規制は厳しく反対しないといけない。どんな小さなことでも認めてはいけない。認めてしまうと、メディアにとって障害になることが歴史によって証明されている。

質問者H・失敗の歴史を積み重ねたことに、どう思うか。

いろいろと議論は出ているみたいだ。本当は隠されたものを掘り起こさないといけない。今はそうなっていない。記者クラブ制度は便利なシステムだが、全体的にはマイナス。発表ジャーナリズムになっていることには反省すべきだろう。ネット以後、メディアは変わった。メディア規制は実際にはできないと思う。中国だってうまくいってない。これからは記者、ネット記者の個人のジャーナリズム魂にかかっている。それを持っていれば、できることは意外と大きいのではないか。「ジャーナリズムは個が支える」と思っている。

おわり

構成・文責・ハンギ