秋葉原100人展を見て


絵師100人展に行ってみた。

http://www.eshi100.com/

行ってみると別にどうってほどでもない。ゲームの原画家イラストレーターがそれぞれ描いたイラストが50センチくらいの大きなボードになって展示されている。確かにこんな大きな原画を大量に見る機会はそこまでない。よく大きな本屋で原画やマンガ原稿を飾っているけど、それくらいのものだ。ただ、僕はよく描けていた絵が多かったせいか、普通の絵画展のような印象を持ってしまった。太ももや胸元をむき出しにしているところが違うといえば、違ったが。

他にどこが気を引いたかというと、やはりそういったイラストの多くは日本をテーマにしている、という点である。もう一つは産經新聞がどうやら主催らしい、という点である。

日本をテーマにしている、ということは別に不思議でもなんでもない気がする………本当にそうか?昔になってしまうと思うけど、テーブルトークが流行った時代はそこまで日本的情緒が大きな場所を占めてはいなかっただろう。その頃描かれたイラストといえば、あらいずみるいいのまたむつみ、が描くようなイラストであり、ドラゴン、剣や魔法がモチーフだった。そういう時代だってあったはずである。そもそもファンタジーちっくなイラストなりマンガというのは基本的には現実逃避として、使用されていたと思う。同じような現実逃避として現代の日本的ファンタジーは機能しているのだろうか。

話が飛んでしまった。そもそも現代のイラスト原画はどの様に消費されているのかを知らなくてはいけない。僕が知っているのは一般的なイメージだと思うが、主に、同人誌やパソコンゲーム、他にはグッズにつけたり、カードゲームになったりしている。こう考えるとわりと幅が広い。マンガやアニメキャラのステッカーを車や自転車に貼ったり、他にもTシャツなどを着ていたりする。こうしたものは痛車とか痛○と呼ばれる。傘にも最近はつけられたりするようだ。

この状況はなかなかにアンビバレントである。キャラクターはそれが薄さ数ミリの次元であるとはいえ、形を伴って実現することを要求しているのではあるが、しかし実現してしまったキャラクターは痛いのである。言い換えるとキャラクター商品は昔は子供向けだったが、いまはわりと大人向けにもあり、日常性を伴う場面も出てきた。しかしそれは間違いなく、日本の社会通念上、まだ痛いのである。まだ痛い、ということはそのうち痛くなくなる、という可能性もあるということだが、現時点(2011、5月)では痛いのだ。だから痛○とか言われている。

しかし痛いといわれようとも、一時期の西洋的ファンタジーよりも日本的ファンタジーのほうが日常的な感覚には親しみやすい。コスプレを例にあげて、ラムちゃんと東方キャラとどっちが痛いかと言われても困るけど、ラムちゃんのほうが見慣れていない分、痛いはずである。しかしこのことに異義を申し立てることはおそらく可能だ。ラムちゃんと同じく、東方キャラにしても、一般的にはそこまで見慣れているものではない。またドラえもんのような、もはや日本人の誰もが知っているキャラクターのコスプレは痛くないのか。いや、間違いなく痛いはずである。この何をもって痛いとするか、という議論に入り込むつもりは僕にはない。しかし、おそらくは日本的ファンタジーの方が多くの見る側の人に、受け入れやすいかもしれない。これは社会的なイメージに関わる問題なので、これ以上はいう事はできないだろう。僕の見るところ、単におたくがそのキャラクターのグッズなりコスプレをしたくなる、というだけだと思うけど、どうして西洋的ファンタジーよりも日本的ファンタジーの方が今のおたくに受け入れられるのか?という問いは成り立つが、それは問いでしかないし、今行うべき問いではないだろう。

しかしこの今のおたくの好みは現実化しやすいという事も、また先に触れたとおりである。コスプレだけでなく、どうして痛いグッズを作ってしまうのか。この原画展に出ているオリジナルなキャラクターはどれもグッズにされれば、痛いはずである。場所は秋葉原だったが、もしこれがどこかの老舗の百貨店で開催されたならば、もしかするとクレームを受けて、中止するという事態にもなったかもしれない。

しかし外国人ならばどうして?と問うだろう。どうして日本的なモチーフが痛いと言われなくてはならないのか、と。大切なのはこの原画展の原画は、多くの場合、むき出しの太ももなどに伺えるように、性的なファンタジーでもあるという事である。性的なメディアが規制を受けるのは周知の事実であるが、どうして私たちは日本的ファンタジーを性的なファンタジーと一致させてしまうのだろうか。そしてそのイラストたちをカードや痛車として現実に実現してしまう欲望とは一体どういうものだろうか。そういう欲望にこうした原画は支えられている事は間違いない。まさにこの原画展もこうした展示をみたい、こうしたイラストをあたかも西洋的な美術館のような形式で見たい、という欲望があるからこそ実現しているのだろう。それはおたくたちの承認欲求として認めるべきだろうか。その面も否定できないが、今まで日本の公衆が通り過ぎていた、一面を提示しているかのように、僕には感じられてしまうのである。

僕たちはなぜか、日本のイメージと共に、性的なイメージも、何気ないイラストから取り除けようとしている。今その点を反省するかのように、こうした展示が行われるのだろうか。間違いなくこうしたイラストは一般的には痛いはずである。しかしなぜ僕たちはそうした絵を痛いと感じてしまうのだろうか。それはおそらくは、僕たちの社会がどことなく、マッチョ的な価値観を尊敬してしまうからであり、その気持ちからの類推ではないだろうか。僕にはマッチョ的な価値観がそれ程の射程を持っているとは思えない。言い換えると、そうした価値観で全てが判断され、価値づけられるとは思えないのである。

こうした絵ももっといろいろな人や場所で展示されるべきだろう。普段は独立に仕事をしている、原画家たちを一望できるという意味からも、意義ある展示だったと思う。