祈りについて、考えてみた。

旅行の話っす。


今回の旅行で印象深かったのは、祈りというテーマがあったことです。
行く先々で、祈りを捧げるうちらのツアーの日本人は、諸外国の人と比べても割と熱心な方でした。

韓国の空港には、プライヤールームという部屋があって、祈る人たちのための部屋がありました。棚の中には聖書みたいな本もあったのですが、部屋の中は簡素な作りになっています。十字架など、特定の宗教を想起させる物はないのが面白かったです。イスラム教徒のためか方角を示している表示はありましたけど。

しかし、そこで熱心に祈っているのは、うちらのツアーの人が多かったですね。一度、韓国人の男性みたいな人が、椅子にゴロンと寝にきた時もありましたけど、まあ、そんな感じで祈りというものにどれほどの価値があるかなんて、現代人にはピンとこないものであるのもまた事実です。

まあ、今回の地震の際に世界中から、pray for japan のメッセージが来たのは、ご存知の人もいらっしゃるのではないでしょうか。日本の無事を祈っているよ、ということだと思いますが、イスラエルで一度だけでしたが、Please pray for the peace of Israel という表記を観光先で見つけました。イスラエルの平和を祈ってください、ということになりますね。実際、今回の地震ではたまたま日本が被災してしまい、祈りを受けているわけですが、こうした祈りはずいぶん前から世界各地であったわけであって、その事にようやく僕たちは気がついた、ということになります。少なくとも、世界では何かしら祈らなくてはならないのっぴきならない現実と、祈る対象の神と、祈る人たちがいたわけですね。おそらくはこの三つの仕組みで祈りという行為は成立するでしょう。

なぜなら、祈る、といってもそれに対してきちんと応える力のある、神や人間にたいして祈らなくては効果がないんですね。なにかよくわかんないものに対して、平和や無事を祈ることがあるでしょうか。多分ないかなと思います。聖書ではキリストであったり、ユダヤの神もまた全知全能なはずです。少なくともその全能性を信者さんは信じているわけです。そうでなくては祈りという行為が成り立たない。

そのことは僕たちには結構異質なことかもしれないですね。困った時の神頼み、という言葉はありますが、初詣や合格祈願のために神仏にお参りに行く時も、僕たちは全能性は信じてないですね。少なくとも日本の神仏は多神的なんで、出産や受験のための神仏はだいたい別なのが普通です。そして別々にわかれている神仏に僕たちは祈っているわけです。これはだいぶ違うことなんだな、と今回の旅行では感じました。確かに日本の神仏も専門化されている内容に関しては、効き目があると言われています。しかし、キリスト教あたりだとオールインワンなわけですね。なんでも祈れるのが利点なのかもなあ、ということです。

もちろんこのことに関して反論することはできます。多神教の方がより穏健ではないか、ということです。そもそも日本の神概念は結構広いです。人間も死後、神になることがありますよね。菅原道真であったり、豊臣秀吉であったり、徳川家康とか。他にも会津藩の歴代藩主は死後は神として、祀られていたらしいです。もちろん、だからといって、この神を敬う人の気持ちに優劣があるわけではないと思います。そういえば、天皇も戦前は現人神でしたね。今でも天皇崇拝に近い気持ちの人はいるでしょう。(ちょっとローマ時代の皇帝崇拝に似ているかもですが。)

そういう多神教的なあり方は、多様なあり方を担保することができます。少なくとも、昔の日本は多様な神を崇拝していた、多様な人たちと解釈されることがあって、これはそんなに変な解釈ではないと思います。少なくとも、日本は奈良時代あたりから神と仏に大別されていましたし。絶対的な信仰のよるところはなかったわけです。

今回の旅行では、絶対的な宗教の祈りも見ることができましたが、意外なことに現在のエルサレムの状況は多神的です。少なくとも、キリスト教ユダヤ教イスラム教の教徒たちが住み、そこで生活しています。もちろん、それぞれの宗教の中では分派がいろいろとあります。そこでは日本を思わせる多神的な状況ですが、日本的ではなかったのでした。

どういうことかというと、それぞれの教徒が自らの絶対的に正しいことを主張しあっているからでした。たとえば、黄金門という旧市街の門があります。ここからキリストはエルサレムに入城したと言われている、大きな門です。ユダヤ教ではここからメシアが終末には到来するみたいなことを言われていますが、そのせいでイスラム教徒はここの門を閉ざし、その前に自分たちのお墓を作ってしまいました。それなので、ユダヤ教をはじめ、他のイスラム教以外の教徒は黄金門に近づくことができません。(付け加えると、この黄金門が閉鎖されたのは16世紀のようです、wikiによると)

(締め出された、ユダヤ人は仕方がないので、向かいの斜面に自分たちのお墓を作ることにしたみたいです。ここがオリーブ山です。)

ただ、観光は出来るんですよね。イスラム岩のドームから黄金門に近づくことはできます。ただ、見た目でわかる、ユダヤ教キリスト教の人は入れません。聖書や十字架のイヤリングなども没収されたりします。もちろん、イスラム教徒でないと、モスクに入ることはできません。

それで、僕たちは観光なので、黄金門を見て来たのですが、見学中にもイスラム教の方から「それ以上近づくと殺すぞ」と大声で言われたのでした。けっこう繊細な場所なんですね。そういう具合で、エルサレムは最近シャロン(まあ、石原みたいなやつですよ)とかが退場したおかげで、静けさを取り戻しはしましたが、そういう問題は依然として抱えているわけです。その黄金門の前で、韓国のクリスチャンの方から声をかけられましたが、日本のことを祈っているよ!と言われたことは印象に残っています。

最後に荒々しく僕の感想を付け加えると、エルサレムは現在進行形で祈りがあったところでした。嘆きの壁もたくさんの人がいました。(年に三度の大きなお祭りのためでしたが) あれはなんで祈っているかというと、神殿がないので犠牲獣が捧げられないからみたいです。だから犠牲獣を捧げられないから、祈ることで神に許してもらおう、という考えがあるからです。そうだとすると、なんともはげしい性質の神様ですね。

しかし、祈りというのは結局なんでしょうか。肝心な事はまだわかってないですね。それは後悔の表れなのか、それとも未来を良くして欲しいという願いなのか。贖罪でもあり、願いや希望でもあるような気がしますが、そうした感情がいろいろ入り混じっているものが、祈りでしょう。そう考えると祈りも多様ですね。

僕は人生うまく行くように、神に願うという事は、もう少し広まってもいいかなと思います。結局、不安だけでは人間の生活は成り立たないですし。自殺者が多いという事も、日本人が無宗教だからかもしれません。(と荒っぽいですが)。神に祈るまでもなく、人生うまく行っている人にはあまり必要ないかもですが、そうした人は謙虚な気持ちを学ぶ為に、うまくいかない人は、うまく行くように祈ることが必要ではないでしょうか。出来たら、僕は韓国のプライヤールームで見たような、誰でも祈れる環境と、誰でも祈れるフリーな神が必要だと思います。その神はオールマイティです。だって、祈る内容に応じて、神様変えるということはめんどくさいじゃん。そう思いませんか?←

しかし長かったね、どうもすいません汗。